一般財団法人 髙橋七之助財団について

2024-02-07

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抒情的都市計画 / Lyrical Urbanism

かつて都市空間は個人の想いに帰属した。

人の往来が十分ではなかったころ、先行した冒険家や旅人が、旅先で仕入れた未知の国、未知の街、文化や出来事を詩で記述した。
詩は本土に伝わり、人々は旅の抒情詩が内包する行間を読み解き、見知らぬ街の通りや店の名に想いを巡らせ、異なる街や文化を夢想した。

“Urban space is a Lyrical Poetry” 「街は抒情的な詩である」

私たちの暮らす街は、過去の美しい詩の旋律が生活者に詩的創造性を与え、今日を彩る。
どの街にも抒情詩が眠り、いつの世も人はその夢に暮らす。

–ヤマモ味噌醤油醸造元 七代目 髙橋 泰

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事業目的

髙橋七之助財団は、現在の岩崎地域の基盤を形成した二代目岩崎町長 髙橋七之助の功績を読み解き、建築環境や文化芸術などの様々な側面から再構築することで、希薄化する郷土愛を再生し、地域の品格を育み、岩崎地域の自治および固有の文化を尊重した地域のあるべき姿の実践を行います。七之助が書き上げた『岩崎町郷土史』では、盟友・水野錬太郎の詩で最後を結びます。人物、時代、物事、それぞれが持つ詩的領域が、地域の文脈を創造していきます。

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帰省秋田岩崎邑

拠来世事心自閉 身在白雲蒼樹間 暮霞朝霧任吾領 不知何虚是塵衰

–水野香堂

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事業活動

髙橋七之助邸の創造的再生と利活用

大正9年から24年にわたり二代目岩崎町長を務めた髙橋七之助邸の再生と利活用を本事業の主軸とします。七之助は天保9年の大火で失われた歴史を紡ぎ直した歴史書『岩崎町郷土史』を作成し、その知見から「昇り藤に岩」の町章のリデザインや礼装での町章紋付き羽織の制定による郷土愛の醸成、城下町の名残を復活させる町内名の変更など、歴史による遺産を基礎とした町のアイデンティティの構築を行いました。また、宮内庁御用品の栄を受けた絵師・紫峰や近世から続く名家・江戸名越家 10 代昌晴の襖絵を設えるなど、良技・良品を方々から集め、創意に富む建築を実現し、芸術文化による交流を推進しました。七之助邸の再生は、現代における岩崎地域のアイデンティティの再構築となり、地域再生のシンボルとなります。この事業から岩崎のあるべき姿の模索をしていきます。

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敷地の南側はかつて江戸時代に評定所があり、後に藩校となる。明治天皇御巡行の際には御小憩所にも使用された由緒を持つ。

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白井建築との融合

白井晟一は戦中に湯沢に疎開し、文化芸術に理解を示した旦那衆と交流を持ちます。そこから地域の建築のみならず公共建築も手掛け、地方からの変革を推し進めました。一方、名士であった七代・七之助が改革を進めた明治中期から昭和初期にも芸術家と旦那衆が交流を持ち、良技を活かした仕事から地域改革を行いました。
異なる時代ではありますが、上質な文化芸術による交流が時代を越える価値を生む、という同じ精神性を現代に表現するべく、七之助邸に白井晟一設計の茶室「琅玕席(ろうかんせき)」を移築します。過去の文脈を学び、そこから現代に挑戦する心を大事にし、時代を結ぶハイブリッドな建築景観から「街の思想=詩的領域」を生み出し、街を機能させていきます。

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「琅玕席」を七之助邸にかつてあった「離れ」の場所に移築し、岩崎地域の明治建築と白井建築の融合を計画。

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「琅玕席」が入る建物は白井晟一の令孫・白井原太氏(白井晟一建築研究所・アトリエNo.5)による設計。

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有形文化の調査および整備と利活用事業

髙橋七之助と同時代に内務大臣を務めた水野錬太郎の別邸「恵澤荘」や湯沢市最古の文化財「岩崎八幡神社本殿」を始めとした伝統建築および寺社仏閣などの有形文化の調査から整備と利活用を目指していきます。

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水野錬太郎の別荘「恵澤荘」と庭園。恵澤荘の隣に位置する旧岩崎青年学校は、岩崎中学校校舎、旧湯沢商業高校の仮校舎、旧湯沢市立農業高等学園の校舎となり、現在はいわさきこども園の敷地となっている。

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寛治元年(1087)に源義家が奥羽の豪族清原家衡、武衡を金沢柵に攻めるとき、岩崎霊符森に建立し、鐙を奉納し戦勝祈願したと伝えられる八幡神社。

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無形文化の継承と支援事業

秋田三代伝説「能恵姫伝説」とその伝説に紐づく「初丑祭り」「能恵姫龍神太鼓」などの無形文化の継承と支援事業を行います。

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令和5年度 岩崎八幡神社祭典では、神官の他に氏子総代、太鼓奏者が参列し、新たな祭りの在り方を提案した。

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社殿をステージに見立て、神事をエンターテイメント化し、厄落としの番楽や太鼓演奏を組み合わせた。

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地域の精神性の核となる遺産とその関係性の調査・研究事業

地域遺産の調査と研究により、過去から紡がれる価値の方向性を割り出し、有形無形文化の在り方を模索します。文化遺産の利活用による生活文化の再生を通じ、地域住民が誇りを持ち、郷土愛や品格が次世代に渡り、育まれる地域を目指します。

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東北学院大学との調査は3年目となり、調査で得た知見が蓄積されている。

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蔵を建てた棟梁が他の建築と共通していたりと、当時の関係性を読み解くことができる。

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スケジュール

令和3年12月 髙橋七之助邸 取得
令和4年 4月 髙橋七之助邸 庭園整備開始(造園家:横山栄悦 日本庭園協会評議員)
    6月 髙橋七之助邸 建築調査開始(東北学院大学建築史研究室 崎山俊雄 准教授)
令和5年 4月 ヤマモ味噌醤油醸造元 七代目・髙橋泰 岩崎八幡神社氏子総代就任
    9月 岩崎八幡神社祭典の復活と再構築
    11月 「琅玕席」(白井晟一設計の茶室) 取得
令和6年 8月 髙橋七之助邸およびヤマモ味噌醤油醸造元 登録有形文化財 登録(予定)
    9月 一般財団法人 髙橋七之助財団 発足(予定)

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七代目・髙橋 七之助

出生地 湯沢市(旧岩崎町)
明治5年(1872)生まれ。幼名を恒吉という。明治28年(1895)に家督を継ぎ、とりわけ公共の為に力を尽くした人物・素封家として地域に名高い。明治34年(1901)から20有余年・300町余に及んだ耕地整理事業では発起人と組合長を務め、大正9年(1920)には推挙されて第二代岩崎町長に就いた(在職期間24年)。在任中の大正15年(1926)12月に発行された社会事業雑誌『人道』には、同町の社会事業が農村地域における社会事業として「最も見るべきものの一つ」と評されている。
いかにして岩崎を住みよい豊かな町にするかを常に考え、農業改良や生活改善、勤倹貯蓄、学校建立など生活文化の発展に取り組んだ。また、七之助の積極的な働き掛けにより、時の内務大臣水野錬太郎が、出生地を江戸としていたが、岩崎町を郷里とするようになった。
妻トミは、雄物川町沼館の医者佐々木順貞の娘として生まれ、甥の佐々木順は二代目沼館町町長として20数年務める。

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水野 錬太郎(雅号:香堂)

出生地 東京都(旧江戸)
慶応4年(1868)江戸詰の秋田藩士水野立三郎正忠泰輔の子として生まれる。父立三郎は戊辰戦争で官軍についた秋田藩のために、妻、生後間もない水野、水野の2人の姉を連れて現在の秋田県湯沢市岩崎に住む。その後、廃藩置県により、一家は東京に戻る。
明治25年(1892)東京帝大卒。内務省参事官、内相秘書官、神社局長、土木局長、地方局長等を歴任。大正元年(1912)貴族院議員に勅選される。2年内務次官、7年寺内内閣、11年加藤友三郎内閣及び13年清浦内閣の内相、昭和2年(1927)田中義一内閣の文相に就任。また、大正8年(1919)齋藤朝鮮総督のもとで政務総監を務めた。昭和15年(1940)協調会会長、17年大日本興亜同盟副総裁、翌年同統理。法学博士。
二代目岩崎町長髙橋七之助の水野錬太郎別邸「恵澤荘」の建築など、地域一丸となった働き掛けにより、岩崎町を郷里とするようになった。

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七代目・髙橋七之助 略年譜

年号    主な事項
明治 5年  湯沢市に生まれる
明治34年  岩崎地区300町歩(300ヘクタール)の耕地整理を秋田県知事に申請
      大規模耕地整理では秋田県最初の計画となる
明治36年  群会議員(大正5年6月まで)
明治38年  岩崎町農会会長
明治39年  耕地整理組合長として工事に着手(昭和6年完成)
大正 5年  産業組合法に基づく信用組合を岩崎町に創設
      信用組合長
      この頃、自宅の田地に染色場から糸の乾燥場もある大きな機織工場を建設
大正 9年  二代目岩崎町町長(24年間務める)
大正12年  岩崎町は昔からフジの花が有名なため、岩崎町の旗印として「町章」に藤を採り入れた
      図案を七之助自身が作成
大正14年  岩崎町に独立校舎の青年学校建設
大正15年  青年学校敷地に隣接して水野錬太郎の別邸「恵澤荘」建立
昭和10年  青年学校校庭に水野錬太郎の胸像建立
昭和15年  「岩崎町郷土史」を出版。表紙文字は七之助の筆跡
昭和19年  岩崎町町長職 辞任
昭和21年  死去(75歳)

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理事

高橋 泰 <代表理事 設立者>
白井 原太(建築家:白井晟一建築研究所・アトリエNo.5)
横山 英悦(造園家:日本庭園協会評議)
―2024年2月現在

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髙橋 泰

ヤマモ味噌醤油醸造元・七代目(名跡:髙橋茂助)。祖先の名士・髙橋七之助の行った産業と芸術、信仰を総合した地域改革を継承し、独善的行為が社会変革を促すことをI.L.A.(Industry Loves Art)により提唱、同ギャラリーを開廊。長年の研究から発見したViamver®︎酵母(特許第7138354号)を日本醸造学会発表。建築家・白井原太氏と茶室「幽玄席」を建築し、造園家・横山英悦氏らと庭園「辿柒園」を作庭。研究者やシェフ、アーティストが参画する組織ASTRONOMICA®︎ inc.を設立し、白井晟一設計の茶室「琅玕席」を髙橋七之助邸に移築計画し、白井、横山両氏と再生に着手する。発酵を「生態系との共存」とし、伝統産業と名士の文脈から地域開発を進める。

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ヤマモ味噌醤油醸造元

岩崎地域は平安末期に霊符の森を切り拓き岩崎城を築城し、十四代から語り継がれる水にまつわる悲話、秋田三大伝説の能恵姫伝説や藁人形道祖神を祀る独特の鹿嶋信仰(秋田県記録選択無形民俗文化財)が残り、城下町・宿場町として発展した地域である。

髙橋茂助は岩崎地域に江戸中期から続く素封家・髙橋七之助家の分家筋にあたる名跡である。初代・高橋茂助が激動の幕末、慶応3年(1867)に創業し、三代目は『秋田県醸造志』(大正6年刊)で製造技術や販路拡大を評価され、四代目は『秋田県名鑑』(昭和2年刊)で中興の祖として「岩崎酒造株式会社取締役」「岩崎町信用組合理事」「商工会評議員」「町会議員」を務め、事業を全国的に拡大し、最後の岩崎町長として地域改革を進めた。

各世代の意志が土地を耕し、産業が根づく。歴代当主の改革的・創造的遺産の連続を継承し、開拓者精神と技術的探究心、伝統を紡ぎつつ革新的意志を持ち、社会を変革していくことを理念“Principle of Legacy(継承する意志)”とし、海外展開を開始。果実香とうま味を醸成するViamver®酵母による革新的発酵技術を製品のみならずレストランメニューやワイン、どぶろくなどの酒類に応用し、単一酵母によるペアリングを実現。蔵元に続く意志を継承し、庭園や茶室、レストラン、ギャラリーを整備し、食と建築が融合したカルチュラルツーリズムを実装。伝統を創造性と美意識により再構築を進める。

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白井 原太

白井晟一建築研究所・アトリエNo.5
東京生まれ 多摩美術大学美術学部建築 学科卒後、設計事務所を経て2000年より 白井晟一建築研究所。 建築、内装デザインの仕事の他、祖父である建築家・白井晟一の仕事の保存、利活用にも取り組み、2019年登録文化財に登録された顧空庵の移築設計も行った。街並みや建築を描く事をライフワークとし、 朝日カルチャーセンター等でスケッチの講師も行う。 著書・編集書として『白井晟一の手と 目』鹿島出版会、『白井晟一、建築を語 る-対談と座談』中央公論社。

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横山 英悦

1952年、山形県生まれ。高校卒業後、造園の道へ進み、京都にて京都御所、桂離宮、修学院離宮のお出入りとなった昭和を代表する庭師、五代目小島佐一氏に師事し、数々の名庭園や宮内庁の仕事に従事。佐一氏のもと、日本一の庭園と賞される足立美術館の作庭初期から完成までに携わり、足立全康氏と交流。佐一氏の最後の弟子となる。その後帰郷し、独立。近年は東日本大震災復興記念庭園を基本設計から手掛ける。後進の育成と日本庭園の価値を伝えるべく、ポートランドやロンドンなど海外での講演も多数。日本庭園協会評議員。

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評議員

伊藤 昭夫(伊藤組造園 会長)
崎山 俊雄(研究者:東北学院大学建築史研究室 准教授)
―2024年2月現在

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伊藤 昭夫

伊藤組造園 会長。

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崎山 俊雄

東北学院大学建築史研究室 准教授。
2000年東北大学大学院工学科都市・建築学専攻修了。株式会社フジタ建築設計センター、秋田県立大学建築環境システム学科助教、同准教授などを経て、2016年より東北学院大学工学部環境建設工学科准教授。文化的で美しい景観の価値を客観的に示し、後世に継承するだけでなく、近現代建築史を通して地方都市の成り立ちを解明し、地域を見直す新たな視点を提示することを目的とする。研究方法は、公文書や設計図面・工事仕様書・写真などを収集し、読解や分析を行う文献調査と、実際に現地に足を運ぶ遺構調査を併用する。

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